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アート

レッサーユリィと同じ時代に生きた日本人画家 『牧野 義雄』

レッサー・ユリィと同じ時代に生きた日本人画家 牧野義雄

レッサー・ユリィの世界観が好きでいろいろ探していたら、
牧野義雄という画家に巡り合いました。

彼はレッサーユリィとほぼ同じ時代に生きた日本人。

夏目漱石留学と同時期にロンドンに住んでいたそうです。

19世紀末~20世紀初頭、英国で、英国人が嫌う霧のロンドンを芸術の域にまで高めて描かれた彼の作品は、英国人を驚嘆させたと言われています。もちろん、このロンドンの霧は「光化学スモッグ」。

彼の絵は当時、大変な人気を博したとか。「霧のマキノ」と称されたそう。

そして、2006年の『開運!なんでも鑑定団』で、『雨のBBC』という作品に2000万円の値がついたそうです。

 

牧野 義雄(まきの よしお)の作品

細やかに描かれた淡い水彩がノクターンの雰囲気を醸し出しています。
詩情豊かにロンドンの霧がしっとりと描かれて惹き込まれます。

 

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牧野義雄ってどんな画家?

愛知県西加茂郡挙母村(現:豊田市)出身
主にイギリスで活動した画家、随筆家。

1870年1月26日(明治2年12月25日) – 1956年(昭和31年)10月18日)

2つの世界大戦を生き抜いた画家です。

挙母藩士(現:豊田市)の次男として誕生します。武家出身であり、なんと、清和天皇の子孫なんですって!

幼い頃から水墨画を学んだ牧野は、23歳の時に単身で渡米し、パリ、翌1897年にはイギリスに渡ります。

恵まれた生活を捨て、いばらの道を歩むこと、人の十倍の努力を宣言した牧野に海軍将校はこう言い放ったそうです。「よくぞ言った。世界を征服しようという野望をもつものはそうでなくてはいかん。」と。

案の定、イギリスではアルバイトで生計を立て、苦学しました。官費留学生だった漱石とは異なりますね。

背広はボロい一着のみ。二足しかない靴下は破れ、これも穴の開いた靴を履くと足指が見える貧乏くささ。美術学校で配布される木炭線消し用のパンを夕食代わりとし、昼食は公園の水を飲み、絵を描く紙に事欠くこともしばしばだった。引用元:霧のロンドン

 

‐‐‐ * —

転機が訪れます。渡英後10年経過した1907年(明治40年)に、美術雑誌の編集長であるスピールマン氏に才を見いだされ、画集『The Colour of London』を発行。これが功を奏します。

復刻版がこちら↓

 

牧野ロンドンで自伝も出すほど時代寵児となりました。その日本語版がこちら。

 

 

 

牧野は霧を描くに当たって、1910年(明治43年)に発表した自叙伝「日本人画工 倫敦日記」で以下のように記しています。

水中に1時間入れて吸い取り紙の様になし、その濡れている内に描く。乾くに従って近景を描く。

 

紙が十分に濡れているあいだに遠くの最もぼやけた部分を描き、乾いてくるにしたがって、近くのはっきりした部分を描くことで、霧独特の奥行きある情景を表現したといいます。
また、1921年に訪英した日本の皇太子(後の昭和天皇)に謁見しています。

のち、第二次世界大戦が激化したために帰国。渡英時代に懇意になった重光葵の援助を受け、重光家とともに栃木県日光に疎開します。

その縁で、彼の油絵や鉛筆画は湯河原の重光葵記念館にも展示されています。

牧野 義雄の画集

The Colour of London

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先述のとおり、イギリスではかなり売れたみたいです。

 

牧野義雄 画集

100年前のロンドンを、彼の視点から味わうことができます。

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牧野 義雄の随筆集

彼は随筆家でもありました。当時のロンドンの様子を日本人画家の目から描かれています。

『霧のロンドン』

彼はイギリスでは世界の名士の一人であるにもかかわらず、日本ではほぼ無名。

なぜ?どんな生涯を送ったの?がわかる本です。


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牧野義雄のロンドン

 

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倫敦の霧描き/牧野義雄と野口米次郎に見る失われた日本の芸術精神 /日本語

日本人が失った心の支えとは?

牧野 義雄の作品はどこで観れる?

彼の作品を最も多く所蔵しているのが豊田市立美術館

その他、神奈川県湯河原の重光葵記念館にも展示されています。

おわりに

恵まれたコンフォートゾーンから抜け出して、自らの欲するところに向かって突き進む、そんな彼のハングル精神に奮いだたされます。

当時は世界大戦時の日本への風当たりの強く、留学がまだ一般的でなかった時代。

きっと差別も乗り越えてこつこつと作品を描き続けたんだろうなと想像します。

日本人の魂は武士道にあり、イギリス人のそれはビジネスにあると見抜く彼の観察眼。

繊細で淡く、一方で世紀末の暗さを醸し出す彼の絵。

彼の生涯を通してみる日本人が失った心の支え?世界中から絶賛?最後にご紹介した本にそのなぞに対するこたえが書かれているような気がします。